テレクラ遊びを楽しめる自分に悩んではいけない

テレクラ遊びを楽しめる自分に悩んではいけない

テレクラを利用できるうちは、テレクラで遊ぶことについて躊躇をしたり深く考え込んだりしないほうがよいでしょう。

貴重な休日や、退勤後のわずかな時間、汗水たらして稼いだ賃金などを、「長時間のオナニー」や「風俗」などの「性的な行為」のみに費やしてしまい、「自分は一体何をやっているのだろう。自分は射精以外に楽しみがない人間なのだろうか」といった要らぬ後悔が生じて、性的な快楽を得るためにつかった時間やお金などを惜しんでついつい思い悩んでしまう、というタイプの男性は、少なからず存在します。

テレクラというものが「性」という最終地点に向かっている以上、このようなタイプの男性が「テレクラ遊び」に悩むこと、即アポ&即ハメのための実践、テレフォンセックスなどを繰り返す日々のなかで「自分はこんな風にテレクラ遊びばかりしていて果たしてよいのだろうか」という疑問にかられることはおそらく避けられないでしょう。

「性」にまつわる事柄や、ひたすらに「快楽」に耽溺するという割り切った態度に対して、社会は人を抑圧するものとして機能したり、罪悪感を強いるように巧妙に構成されている側面があるのは確かですから、「自分は快楽主義者である」という意識的な選択をしてよっぽど性的に突き進んでいる男性でもない限り、このような性にまつわる懊悩の網から逃れきるのは非常に難しいのではないかと思われます。

結論からいうと、「テレクラ遊びが楽しめるうちは、テレクラ遊びだけしていればよい」というのが私の意見となります。

人として、「飯食って射精して寝ることくらいしかできない/やることがない」ということは決して悪いことではありません。むしろ、「飯食って射精して寝ることくらいしかできない/やることがない」ということは「あたりまえ」ではありません。「それができる」というだけでもすごいことなのです。

胃腸などの内臓が機能しなくなれば「飯を食う」ということも「あたりまえ」ではなくなり、精神や神経の問題で「不眠」におちいれば「寝る」ことが「あたりまえ」でなくなるのと同様に、「射精」というのも自分が性的な人間として機能している間にだけ許された「特権」なのであって、「あたりまえ」ではないのですし、選択肢として「失われる可能性」があるものなのです。

テレクラ遊びを肯定するところからテレクラが始まる

「あたりまえ」ではない「射精」ができる、ということに悩む必要はありません。その「射精」につらなる「テレクラ遊び」についても同様です。

「明日、あなたは勃起できなくなる」だとか「明日、世界中からテレクラがなくなる」と予言されたとしても、人は「まさか」と思って真剣に対峙することができないのではないかと思います。

しかし、「勃起」も「テレクラ」も「あたりまえ」ではありません。突然のきっかけでいきなりなくなってしまう可能性がある、きわめて不安定なものであるということは、どうしても忘れられがちです。

「自分にはテレクラくらいしか楽しみがない」というような考え方は、正直なところ「愚の骨頂」であると言わざるを得ません。

「テレクラを楽しむことができる、充実した“現在”」という「あたりまえではないことへの姿勢」を忘れてしまい、「テレクラ」に没頭できなくなるようなときに、「いま、ここ」にしかない「出会い」も「テレフォンセックス」も途端に輝きを失っていきます。

「射精」ができなくなったり「テレクラ」がなくなってしまったとき、「もっとテレクラ女性と即ハメをしておくべきだった。テレクラ女性との濃厚テレフォンセックスを楽しんでおけばよかった」などと考えても、もはや手遅れです。取り返しがつきません。

「テレクラ」で遊んでいるという「性的な事柄」をわざわざ自慢する必要はありませんが、「テレクラで遊ぶ」という快楽的な行為に真剣であるあなたを誰一人として否定することはできません。

「テレクラ遊び」が、それに興味を持たない誰かにとって無駄であるとして、その立場からいくら批判されたからといって、「テレクラ遊び」に興味があるあなたにとっての「テレクラ」の価値が揺らぐということは決してありません。

飯を食って射精をしてゆっくり眠ることができるあなたは、さらに「テレクラを楽しむこと」さえできているのですから、テレクラをつかっている自分の「いま」の時間を大切にしながら、「テレクラ」を選んだ(あるいは「テレクラ」に選ばれた)自分のことを肯定してあげてください。